大好きな叔父が亡くなった。
実父よりも私と娘を支えてくれた人。
私が育児ノイローゼになった時、叔父は何も言わずに娘を預かり、育ててくれた。
助けられた場面は数えきれない。
最期の数日間、私は病院に通い続けた。
叔父は息がとても苦しそうで、延命装置によって生かされている状態だった。
会話はできず、手も動かせない。声も出ない。
はあはあと息を繰り返すだけ。
それでも意識だけははっきりしていた。
それが余計にかわいそうだった。
ただ、ただ、病院のベッドの上で荒い息を繰り返しているだけの毎日。。。
それを見ている時間は、とても苦しかった。
正直に言えば、早く楽になってほしいと願っていた。
毎日、祈った。
叔父の最期をそばで見て、強く思ったことがある。
「毎日健康で、朝、目覚められること」
そんな本当になんでもないことが、実はすごく幸せなことなんだと気づかされた。
何事もなく一日が始まり、朝日を見ることができる。
それはあまりにも当たり前で、普段は意識にも上らない。
けれど、その当たり前は、いつまでも続くものではない。
私はこれまで、自分の夢を追いかけて走り続けてきた。
でも、本当の幸せはもっと静かなところにあったのだと思う。
健康で、日々を過ごせること。
生きているという事実そのものが、すでに十分な幸せなのだと感じた。
人は必ず最期の日を迎える。
それは誰にも避けられない。
仏教でいう無常という言葉が、頭ではなく、身体で分かった気がした。
だからこそ、後悔のないように、毎日を大切に生きる。
それが、自分の人生を全うするということなのだと思う。
叔父の存在とその最期は、言葉を使わずに私にそのことを静かに教えてくれた。
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