5. 生命 いのち

叔父の死と無常の体現

大好きな叔父が亡くなった。
実父よりも私と娘を支えてくれた人。

私が育児ノイローゼになった時、叔父は何も言わずに娘を預かり、育ててくれた。
助けられた場面は数えきれない。

最期の数日間、私は病院に通い続けた。

叔父は息がとても苦しそうで、延命装置によって生かされている状態だった。

会話はできず、手も動かせない。声も出ない。
はあはあと息を繰り返すだけ。
それでも意識だけははっきりしていた。

それが余計にかわいそうだった。

ただ、ただ、病院のベッドの上で荒い息を繰り返しているだけの毎日。。。
それを見ている時間は、とても苦しかった。

正直に言えば、早く楽になってほしいと願っていた。

毎日、祈った。

叔父の最期をそばで見て、強く思ったことがある。

「毎日健康で、朝、目覚められること」

そんな本当になんでもないことが、実はすごく幸せなことなんだと気づかされた。
何事もなく一日が始まり、朝日を見ることができる。

それはあまりにも当たり前で、普段は意識にも上らない。
けれど、その当たり前は、いつまでも続くものではない。

私はこれまで、自分の夢を追いかけて走り続けてきた。
でも、本当の幸せはもっと静かなところにあったのだと思う。

健康で、日々を過ごせること。
生きているという事実そのものが、すでに十分な幸せなのだと感じた。

人は必ず最期の日を迎える。
それは誰にも避けられない。

仏教でいう無常という言葉が、頭ではなく、身体で分かった気がした。

だからこそ、後悔のないように、毎日を大切に生きる。
それが、自分の人生を全うするということなのだと思う。

叔父の存在とその最期は、言葉を使わずに私にそのことを静かに教えてくれた。

🪷

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