ゆいしきと仮想現実
生活の中で良く「なぁんだ、そうだったの~!早く言ってよ~」という出来事ありますよね。
自分の勘違いで早とちりして、焦ったり悩んだり人に怒ったり。そのあとで自分の見当違いだったと知って安堵する。
誰でも必ず経験したことがあると思います。
現実の世界はそれの繰り返し。
不安になってはホッとする、そしてまた不安になる。
いつまでもこんな勘違いを繰り返して生きています。
ところで、いま自分の目の前で起こっている事象が実は全て自分の勘違いだったとしたら?
あなたはどう思いますか?
私たちは人生で常に悩んだり苦しんだりしていますが、それらの問題が全て自分の勘違いだとしたら。
悩む必要もないことでずっと辛い思いをしているわけです。
とんだ取り越し苦労ですよね。そして無駄なエネルギーと時間を使ってしまって人生を随分損してます。
仏教の教え「ゆいしき」は、私たちが見ている全ての事象は「仮有(けう)」としています。
これはこの世に存在するものは、すべて因と縁の和合によって一時的に生じたもので、仮のものでしかないということ、それ自体は本質的な実体性をもっていない仮の存在であるという意味になります。
むずかしいですね。。。
外界には何も存在しない?

例えば、
今、目の前に一つのお花を見ているとします。自分はそれをチューリップだと認識しているとします。目の前にある花はチューリップだからです。チューリップを目で見て認識したのです。
でもそれは本当にチューリップでしょうか。心で捉えた目の前の花は現実はチューリップではなく、自分の勘違いでそう捉えているだけなのかもしれません。
本当はそこには単なるピンクの花が存在しているだけなのに。
いろいろな情報操作や洗脳的な認識、自分の今までの経験などのたくさんの条件が入り混じって、心の中は外界の世界を正しく認識していると言えない状態です。
そのあやふやな認識で捉えた外界の情報は、自分の心の中で誤った映像として心が捉え、脳が間違って認識していることになる、というものです。
自分が「絶対だ!」と思っていること、自分が正義だと思っていること、自分が正しいと思っていることは、実はそうではなかった、ということになってしまうわけです。
自分だけでなく、人間誰しもがそのような状態に成り得るわけですので、どんなに偉い先生でも、素晴らしい人でも、認識違い・間違い・勘違いをしているということになりますから、私たちはいかに人の言葉に惑わされ、情報に翻弄され、勘違いの中で血迷っているかが分かります。
物の実体とは
たとえば、目の前にスプーンがあったとしても、自分の見ているスプーンはあくまでも心に映る映像に過ぎない。そのスプーンは心の中の映像世界に過ぎず、そこには実際スプーンは存在しない。
これが、「実体がない」(スプーンという概念でしかすぎず、スプーンという物は実際には無いのだ)ということです。
私たちの生きている世界は、私たちが思っているような物が存在している現実世界ではない。
外界のようすを心のスクリーンに映し出し、自らの勝手な解釈でそれらを判断した「自分勝手な心の世界の中」で生きています。
心の中の世界は人それぞれで、みんな多種多様の世界の中で生きているということになるので、自分の世界を相手に押し付けてもそれは正義とは言えないのです。
同様に、喜びや苦しみというこころの動きも、あくまで唯識と言われる心の世界の中で起きていることです。ということはつまり、現実世界がどんなに変わったとしても、私たちの心そのものが変わらないことには、苦しみから離れることはない。どんなに大金を手に入れたとしても、それはあくまで外界世界のことであって、私たちの心の世界(ほんとうの世界)には関係ないのです。
どんなにお金や名声を手に入れても無意味なこと。
このことが理解できたならば、「現実世界で自分が何を得たとしても、それだけでは自分が幸せになることはない」と腑に落ちます。逆に、何を失っても、それだけで不幸ということにはなりません。
ゆいしきの真理をしった仏や菩薩たちは、現実世界に対する執着から段々と離れて、現実世界で何が起きたとしても、、、、たとえ家財を失ったり、家族を失ったりしたとしても、それだけで心が乱れることはないのです。
私たちはゆいしきの真理を学び、
この世の本質を「正しく」認識することができるようになることが求められます。







